黄金が産出した頃、8世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていました。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策を進めながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には「城柵(じょうさく)・官衙(かんが)」などを置いて、地域の整備や「蝦夷」と呼んだ東北地方の在地の人々の教化にあたっていました。天平の産金地となった「小田郡」も、そうした辺域の1つだったのです。
天平産金から3年後の天平勝宝3年(752)、多賀以北の郡は、正丁4人につき1両の黄金を税として納めることが決められています。こうした施策は、小田郡以外での産金地拡大をもたらしたと考えられます。
こうして、律令政府の進めた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」として知られる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのです。