国史跡黄金山産金遺跡が注目されるようになったのは、江戸時代、続日本紀や万葉集などに書かれている「天平の産金地・陸奥国小田郡」や「みちのく山」を探そうとする探求に始まります。
文化7年(1810)、伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)の国学者・沖安海は、家業の染型紙商のため当地を訪れ、ここ黄金山神社の地が天平の産金地であり古代の神社跡ではないかとの論文をあらわし、荒廃していた黄金山神社の復興事業を展開しました。
その後明治以降になると、大槻文彦氏(国語学)、渡辺萬次郎氏や小野田匡高氏(鉱床学)、扇畑忠雄氏(古代文学)など、各界の研究者がこの沖安海説を支持して検討をすすめ、現在の涌谷周辺は古代・小田郡であり、天平の産金地として妥当であると考えられるようになりました。
一方、地元の郷土史家佐々木敏雄氏は、神社で時折出土する古瓦に「天平」と書かれたものがあることに注目して広く遺跡の紹介につとめ、内藤政恒氏(考古学)は、遺跡が天平時代の仏堂(六角円堂)跡であり、産金を記念して建立されたものと論をすすめました。
そして昭和32年、発掘調査が行われ、社殿および後方の玉垣附近から、土を版築した基壇跡と、約3.3m(11尺)間隔に並ぶ4ヶ所の根石群が見つかり、社東脇の斜面では古代の瓦や土器が数多く発見されました。
これにより、黄金山神社のある場所は、天平産金に深く関連した古代の仏堂が一棟建てられていたことが明確となり、昭和42年、「黄金山産金遺跡」の名称で国史跡に指定されました。